死と向き合う現場 - 生きていることを実感する大切さ
先週はなかなか精神的にハードな週でした。私のお気に入りの患者さんが突然亡くなられたり、ホスピスに行くことに決めた患者さんを見送ったり、看護師たちにディブリーフィングをして大失敗したり(涙)、となんだかとっても疲れました。特に私のお気に入りの患者さんは、私の勤務中に急変しご臨終されたので、まだ患者さんが亡くなったばかりの病室でご家族のケアをしなければいけませんでした。これが結構キツかった・・・
死が起きたばかりの空間って、何か静寂で神聖なんだけど、本能的に気持ちをソワソワさせる、なんとも形容しがたい不思議な空気に包まれます。先週まで元気にお話していた患者さんの体が、一週間後の今はもう抜け殻みたいなっている・・・頭では患者さんが亡くなられたことは理解できても、心はそれについて行かない。ましてや、奥さんの気持ちはいかばかりか。まだ暖かい患者さんの体を触っては「ねーシンペーさん触ってみて。彼の体まだこんなに暖かいの。もしかして、まだ生きてるんじゃない?」ってすがる様に私を見る奥さんの気持ちを考えると切なくなり、また頭を横に振ることしか出来なかった自分がやるせなかったです。
・・・とこんな業務には腎臓透析科ソーシャルワーカーとして慣れているはずなのに、やはり死の現場はそれぞれ違い、またその空気に心が完全に慣れてしまうことはないように思えます。そんな訳で、「異質」というか「非現実的」というか、死が作り出す独特なエネルギーを吸い込んだ私は、今週末は心身ともにズシ~ンと重たいのです。
突然死を目の当たりにすると、逆に自分が生きていること自体が奇跡のように思えてきます。そして「自分だっていつ死んでもおかしくないんだ」、とか「もしかしたら私の家族も友人もこんな風に突然死んでしまうかも?」と考え始め、生きていることが当然だと思っていた自分の「常識」が覆されてしまったみたいな感じがして、とてつもない不安に襲われるのです。こんな時に必要なことは、「私は生きているんだ!」と実感すること。再び「生」の日常を取り戻すことで、死のエネルギーを体から出さなければいけません。
そこでまず私が今週末やったこと・・・それは食べること。食べることは生きていることの証です。「やけ食い」とまではいきませんが、私は友人と久しぶりに日本食の食べ放題に行きました。お腹いっぱい食べたときの満足感、そしてエネルギーを補給した事により「あ~生きてるんだ」という実感が体の底からジワジワと沸いてきました。
そしてもう一つ私がこの週末にしていること・・・それは今月末の日本旅行の予定作り。予定を立てることは、未来を考えること。私が「これからも前に向かって生きていくんだ」と言う事を確認する作業です。それに、将来やりたい楽しい事を考えることは気分をワクワクさせてくれ、生のエネルギーを活発にさせてくれます。
最後に私は運動をします。今日もジムで「ライバル達」とランニングをしました。額から流れ出る汗、ドクドクと脈打つ心臓の鼓動、そして自分の息遣いを感じると、自分自身が持つ生命力を直接的に身体から感じ、「あ~生きている!」と何ともいえない安心感を与えてくれるのです。でも、ライバル達に負けじと走りすぎると死にそうな気分にもなるけど(笑)。
なんだかセンチメンタルな話になってしまいましたね。でも医療ソーシャルワーカーとして働くうえで、死に遭遇することはよくあります。死の現場に立ち会う時は、患者さんの家族だけでなく、医療ソーシャルワーカーだって大きな心理的影響を受けるのです。そうして必然的に「死」というものを医療ソーシャルワーカーも自分自身の人生に照らして考えてしまうのです。しかしそのエネルギーに飲み込まれてしまうのは危険です。そのためにも「自分は生きているんだ」という確認作業をすることが、死の現場で医療ソーシャルワーカーをする上では、とっても大切なことだと私は思うのです。私もまだ完全に重い気分からは脱却していませんが、それでも少しずつ「明日もがんばるぞ!」という気持ちになってきました。今回の件では、まだまだ私もセルフケアの技を磨かないといけないな!とも気づかされた週末でした。
(↑食べ放題の写真。なかなか美味しかった!)
0コメント