ソーシャルワーカーと宗教
先週末、大学時代の同級生I君と久しぶりに会いました。I君とはソーシャルワーク学部で一緒に勉強し、なんと言っても学部生60人のうち男子学生4人という超女性優位(?)の世界だったので、思えばいつもI君と教室の後ろで退屈そうに講義を聞いていたものでした。そんなI君は大学卒業後、他州に移り住み、そして児童保護の仕事をここ10年以上一筋に続けているのでした。しかし、このI君の児童保護ワーカーキャリアはとても平坦なものではありませんでした。
児童保護ワーカーの仕事をして以来、I君は3度休職を経験しています。それはI君自身がそのつど仕事の所為でストレス性障害に罹ってしまったからです。I君が初めて児童保護ワーカーの仕事を休職したのは、ちょうど私が国際協力関係の仕事でベトナムに移り住んだ頃でした。しばらく音沙汰の無かったI君から突然連絡が来て、「ちょっと気分転換に放浪の旅に出たくなった。ベトナムに行くからよろしく!」と言い放つと、一週間後にはベトナムに現れ、その後一ヶ月の間、我が家に「勝手に」居候したのでした(笑)。当時彼は「児童保護の現場で子供も親も救済しようと頑張ったけど、ぜんぜん前進しなくてやる気がうせた・・・」といつもポジティブなI君が珍しく弱音を吐いていたのを覚えています。しかし一ヶ月のベトナム滞在は良い刺激になったようで、晴れ晴れした感じで帰国し、職場復帰していったのです。
しかしその三年後、また不調となり6ヶ月の休職と配置転換。そしてその後現場復帰。そしてまた不調となり休職・配置転換・・・という繰り返しのI君だったのですが、昨年は大きく体調を崩し入院する状態にまでなってしまいました。現在はI君また職場へ復帰したのですが、児童保護の現場ではなく、事務方の仕事をしています。本人も今の仕事を気に入っているみたいで特に不満は無いとの事。しかし会話の途中の何気ない一言に、まだ児童保護ワーカーの仕事への未練があるようで、「もう少し心が強くなったら児童保護に戻るつもりだ・・・」と言っては私を心配にさせるのでした。
児童保護ワークの仕事は、ソーシャルワーカーなら誰もが知っている「超過重労働」の現場。児童保護ワーカー3年限界説が巷に流れるほど離職率の高い仕事なので、I君が仕事によるストレス障害に悩まされるのも驚くことではないのかもしれません。しかし、昔からI君を知っている私は、児童保護ワークの激務だけがI君を精神的に追い詰めてしまっている原因ではない事も知っています。
I君のお父さんはキリスト教会の牧師さんなので、I君自身もキリスト教の影響を強く受けて育って来ました。大学時代、I君はソーシャルワークの道に進んだのは迷える人々を救うためだ、と私に話してくれたことがあります。あまり宗教色の強くない環境で育った私には、少しばかり驚いたこのI君の発言なのですが、ま~確かにソーシャルワークのそもそもの歴史はチャリティーから始まってる訳だし、今でもこういう動機でソーシャルワーカーになる人がいても不思議じゃないかもね~、なんて風に考えていました。しかしI君、大学の授業には結構苦労していました。と言うのも大学で教えるソーシャルワークの価値観と彼のもつ宗教的価値観とが上手くかみ合わなくなって来たからです。
例えば大学では「クライアントを援助するためには、ソーシャルワーカーは自身が持つ倫理観や価値観そして偏見を理解しなければいけない。その上で多角的に様々な価値観・倫理観を理解し受容することによって初めて、クライアントの立場に立って、そしてクライアントの一番の利益となる解決方法を考えていくことが出来るのだ」と学生たちにソーシャルワーカーの基本姿勢を徹底して教え込みます。なぜなら、ソーシャルワーカーが向き合う問題には、中絶や尊厳死などの倫理に関わるものが多く、そしてソーシャルワーカーが相談に乗るクライアントにはセックスワーカー、薬物依存者、セクシュアルマイノリティー(LGBT)など社会的偏見に苦しむ人達も多いからです。
しかしI君にはI君自身がもつ宗教的価値観の為に、中絶や薬物依存に関する問題、またセクシュアルマイノリティー(LGBT)の人達への差別問題について理解し共感することへの困難、苦悩の壁にぶち当たっているようでした。恐らくI君も頭では問題を理解しているものの、「でもそれはいけない事だ!」という宗教的倫理観がクライアントのベストを考える上で邪魔をしてしまっているみたいでした。よくI君は私に「そんな自堕落な人達を救うためにソーシャルワーカーになりたい訳じゃないのに、学校ではこんなクライアントの話ばかりで困る」と愚痴ったものですが、私はもちろんそんな意見に賛成できるはずもなく、「じゃー辞めた方がいいんじゃね?」と辛らつに応えてはI君を泣かせていました(笑)。
それでも、恐らくそもそもの基本性質はリベラル派のI君なので、大学卒業の頃にはそれなりに自己の価値観と他者の価値観とを割り切れるようになったみたいで、愚痴ることも少なくなりました。しかし現場に出ると、どうしても「救いたい」「救済しないと」という宗教的義務感が強く出てしまうみたいで、それが児童保護ワークによるストレス障害の一大要因なんじゃないかと私は推測するのです。だって、ソーシャルワークの現場で貧困などの社会問題に苦しむ人たちを完全に救うことなんて滅多に出来るもんじゃありません。少しでもクライアントの負担が軽くなったのなら儲けもんだ!くらいの気持ちで仕事をしないとすぐに凹んで燃え尽きてしまいます。それが児童保護の現場だったらなおさらです。虐待を受けた子供を心身共に完全に救うことは、そう簡単ではありません。これは残念なことではありますが世の厳しい現実でもあるのです。
ソーシャルワーカーの多くは多かれ少なかれ何かしらの宗教観を持っていると思います。それは問題を多く抱える人たちと働く中で、あ~神様仏様どうかこの人達を助けてください~と何も出来ない自分のふがいなさの穴を埋めるための「困ったときの神頼み」的に必要だったり、またある時はミラクルが起こって、クライアントの問題が突然神がかり的に解決したりして、何かしらの力を感じたり・感じたいと願う時がソーシャルワーカーの仕事には多々あるからです。
しかし、あまりにも宗教的価値観を強く持っている人には、ソーシャルワーカーという仕事は精神的にとてもキツイ仕事かもしれません。様々な価値観を理解し、クライアントの立場に立って考え、共感し、援助しなければならないソーシャルワーカーにとって、「これは良いことだ」「これは悪いことだ」と白黒つけ、「こんな事はしてはいけない!」と制約ばかりつける価値観を持っていることは、クライアント一番の原則を貫かなければいけないソーシャルワーカーにとっては足かせ以外の何物でもないからです。
さてこのI君ですが、実はなんとベトナム滞在時に私のベトナム人の同僚と恋におち、そして結婚したのです。ですから私は彼らの愛のキューピッドでもあるわけです。I君のストレス障害を救っただけでなく、彼の配偶者まで見つけてあげたこの仕事が出来るスーパーソーシャルワーカーの私を見習って(笑)、I君にはこれからも元気に頑張ってソーシャルワーカーを続けて欲しいものだと心から思うのでした。だってI君みたいに本当にクライアントに幸せになって欲しくて、それで自分が弱ってしまうような優しいソーシャルワーカーこそ、ちゃんと救われないと不条理です・・・それに比べて私のソーシャルワーカーとしての面の皮は厚くなるばかりの今日この頃なのでした。おわり
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