認知症の透析患者さん


高齢者の多い腎臓透析科には、認知症の患者さんもいらっしゃいます。そんな認知症の患者さんのほとんどは軽度の認知症なので特に大きな問題は無いのですが、中には症状が進んで重度の認知症になってしまう透析患者さんもいます。先日も86歳の認知症患者さんFさんが、自宅で胸に付いている血液透析用カテーテルをハサミで切ってしまい、透析科で看護師がFさんのぶった切れているカテーテルを発見して大騒ぎになりました。というのも、この胸についているカテーテルは直接血管と繋がっているので、下手したらFさん出血多量で死亡!なんて事にもなりかねない大事件なのです。また素手でカテーテルを弄ったために血管から入ったばい菌によって敗血症になってしまい、病院に即入院となりました。



Fさんの家族は、軽度の認知症は患っていたものの今までこれと言った問題を起こしてこなかったFさんの突然の奇行に驚いています。正直私たち透析チームも驚きました。今までカテーテルを引っこ抜いてしまう患者さんはいたものの、ハサミで切ってしまうなどという確信犯的な行動を起こした患者さんはいなかったからです。でもそう考えてい見ると、Fさんのこの行動、認知症からなのでしょうか?と私は少し疑問にも思うのですが、今まで透析にもきちんと来て、透析の大切さも理解していたFさんですから、やはり何かがおかしいと言うのは分かります。Fさん自身は「どうしてこうなったか覚えていない」と言うだけで謎は深まるばかりです。とりあえず担当医にお願いして、Fさんを高齢者専門精神医に診てもらうことになりました。



さて、このように認知症の症状が重くなった患者さんの透析治療は困難を極めます。それは透析科には認知症患者さんの問題行動に対処できるだけの人員と設備が無いからです。例えば、認知症が進んだ透析患者さんは、病院内で迷って徘徊してしまったり、カテーテルを抜こうとしたり、透析中に動こうとする事が多いのですが、それを介護・ケアする要員は予算不足のため雇うことが出来ないのです。また倫理の観点から、透析科では身体拘束や薬物拘束はしない事になっています。そうなると認知症の進んだ患者さんに出来る事は二つ。患者さんの家族に患者さんの透析中の介護・ケアを頼むか、もしくは患者さんの透析治療を止めるか、の二者択一です。でも患者さんの透析治療を止めるという事は死ぬ事を意味するので、家族としては簡単には決められません。だからといって、仕事、子育て、日常生活に忙しい家族が患者さんの毎回4時間、週3回の透析治療に付き添い続けるのも簡単ではありません。ましてや、認知症の患者さんに家族がいない場合など、この問題はもっと複雑になります。



じゃー家族がいなくて認知が進んだ患者さんはどうするんだ?って事になるんですが、これ私にも答えは分かりません。保険局には「倫理委員」なるものが存在し、その委員会に決めてもらうか、公的管財人の助けをかりて患者さんの遠くの親戚を探してもらうか、または公的管財人主導で患者さんの透析治療中止を決めるか・・・どれを選んでも茨の道であることは確かです。ラッキーな事にまだ私、このような絶対ピンチなケースには出会ったことはないのですが、でも認知症患者さんの家族と透析継続否かの話し合いを行った事は沢山あります。



やはり患者さんの家族の多くは、認知症が要因での透析中止には躊躇します。というのも、認知を患っている患者さんの意思確認することは大変むずかしいからです。透析をする目的を理解しているのか?治療に満足しているのか?もっともっと生きたいと思っているのか?それとも、もう死んでもいいと思っているのか?人生に関わる大切な事を患者さん本人と満足に話し合うことが出来ないまま、家族が患者さんの透析中止、すなわち死の選択をする事は容易ではありません。しかし、もし患者さんの透析を続ける選択をすれば、今度は家族が何かを犠牲にして患者さんの透析に付き添わなければいけません。そうしたくても、家族の財政的状況のため、それが不可能な家族も珍しくありません。つまり、私たちの歪んだ社会構造(と保険局の予算不足)のために、認知症患者さんの治療を受ける権利も、患者さん本人そしてご家族のClass(社会的階層)によって大きく影響を受けてしまう!と言い換えることも出来るのです。



「世の中すべて金だぜ!」とは思いたくないし、認めたくはないのですが、しかし実際お金があって裕福な患者さん・ご家族は、↑のような問題はプライベートヘルパーを雇うことでいとも簡単に解決してしまうのがまた悲しきけり・・・って感じになります。ソーシャルワーカーの私としては、このような認知症問題は解決方法を持っている富裕層だけに発生すればいいのになぁ~、なんてイケナイ事を望んでしまうのですが、実際には泣く泣く認知症患者さんの透析を止める決断をせざる得ないご家族と働く事が多いのが辛く悲しい現実です。



ただし、透析中止すること自体が悲劇かと言えば、必ずしもそうとも言い切れません。透析治療自体はそれなりに辛い事も多いし、出来る事なら止めたいと願う患者さんも少なくありません。しかしそれでも透析治療を受けて、生きていたいと願うのは、皆それぞれ人生でやりたい事があったり、一緒に時間を過ごしたい愛する人たちがいるからなのです。もし自分が認知症にかかって、生活の質が大きく下がり、自分が何者かも分からなくなった時、果たして私は透析を続けてまで生き続けたいと思うだろうか?と私自身は疑問に思います。むしろ透析を止める事で、自由になれるんじゃないか?とさえ思ったりもします。もちろん私は透析治療を受けているわけではないので、これはあくまでも私の想像・主観ですが、しかし、ご家族の中にはこのように考えてあえて認知症患者さんの透析中止を選ぶ方々もいるのです。



ですから認知症患者さんの透析中止が絶対に不幸だとは言い切れません。ただ、やはり死に行く患者さん本人との意思確認が出来ない中での透析中止の決断は、家族に多くの痛み・悔いを生じさせてしまうのが、それを傍で見守る私たちソーシャルワーカーには辛いのです。ソーシャルワーカーとしては、そのような辛い決断をするご家族には、決してその決断が間違っていないのだと、何度も繰り返し繰り返し呼びかけることで少しでもご家族に悔いが残らないようにしてあげることしか出来ません。それでも患者さんが亡くなられた後に、ご家族から「あの時は辛かったけど、やはりあの決断は間違ってなかったと思う。きっとお父さんも今は天国で穏やかに喜んでいると思うから・・・」と言って貰えることもあるのが、私たちソーシャルワーカーにとってはせめてもの救いです。

カナダでソーシャルワーカー Social Work in Canada

カナダでソーシャルワークをしてみませんか?

0コメント

  • 1000 / 1000