医療ソーシャルワーカーの生死観


6月に入り、担当の患者さんが何人か立て続けに亡くなられました。体調が急変して亡くなられた患者さんもいましたが、多くは自ら、または家族が透析治療中止の決断をして亡くなられていきました。複雑な病状の患者さんが多いのが特徴のうちの腎臓透析科なので、患者さんの平均余命は3年と短く、そのため私達医療従事者も患者さんとのお別れには慣れているのですが、それでも何年も担当してきた患者さんが亡くなられると悲しく、そして寂しい気持ちになってしまいます。それでも患者さんよっては「楽になれてよかったね」と患者さんの苦痛が解放されたことを喜べる気持ちもあるので、それぞれの患者さんの状況によって、患者さんの死に対する私の喜怒哀楽も複雑に変わってくるのです。



例えば、80歳の高齢患者さんLさんは、ここ半年ほど体調不良で入退院を繰り返していました。また意識も段々と朦朧とするようになり、ベットからも起き上がれなくなっていきました。ベトナム系の家族は、文化的影響もあって、在宅で娘さんが一生懸命24時間介護をしていたのですが、それも持続不可能なほどCさんの状態は悪化し、施設入居も考えるようになりました。腎臓チームの観点では、透析治療を続けてもCさんの容態の悪化は止めることは出来ないので、CさんのQOL(生活の質)の為にも透析治療を止める選択を考えてもいいんじゃないか?と家族に提案しました。一般的にアジア系の家族は、患者さんの延命治療中止には及び腰になる!というイメージが私の経験からあるのですが、Cさんのご家族は「これ以上お父さんに苦しんで欲しくないから、透析を中止して、ホスピスに移して欲しい」と決断されました。Cさんはその後、ホスピスに移って緩和ケアを受けながら静かに亡くなられました。



このようなケースだと、私としては「あ~よかった」とホッとします。もちろんご家族の悲しい気持ちは伝わるので、私も決断を手伝う過程では辛くなるのですが、それでも患者さんにとってもご家族にとっても透析中止が一番最良の決断だという私個人の思いもあるので、このようなケースでは悲しみよりも安心感の方が大きいのだと思います。



これに似たようなケースがもう一つありました。これまた80歳の患者さんCさんは認知症を患われていました。年々Cさんの認知症は悪化していき、ここ3ヶ月間は透析治療を嫌がり叫ぶようになっていました。特に透析をするために針を腕に通す時などは「止めてくれ~殺される~!」と悲鳴をあげ、本当に恐怖を感じているようで見ているほうも辛くなります。針を通さなければならない看護師ならなおさらで、患者さんの体を拘束してまで透析させることは医療倫理にも反するので、Cさんが嫌がる時は透析を中断する事も度々ありました。しかしCさんのご家族はCさんの透析治療中断には反対で、今まで通り治療を続けるよう要求します。透析を嫌がるCさんに透析をさせたい家族。こうなると医療ソーシャルワーカーに問題解決が託されます(なぜ!?)。そしてこの問題を解決するためにソーシャルワーカーが取った手段とは・・・「ご家族に直接Cさんの透析の様子を見てもらう!」事でした。この作戦は大成功(?)で、恐怖で叫ぶCさんの声を聞いた息子さんは思わず「もう透析治療は止めてくれ!」と逆に頼み込んだのでした。



ご家族としては、もっともっとCさんに生きて欲しいという願いがあったのでしょう。だからこそCさんが認知症の所為で透析が出来なくなることにも目をつぶっていたかったのかもしれません。でもCさん本人が苦しんでいる姿を見て、ご家族もやっと誰のニーズを満たすことが一番大切か気が付いたのではないかと思うのです。認知症という病気の所為で透析が出来なくなってしまうこと自体は、私もとても悲しく思います。でも苦しんでいる患者さんに無理やり治療をする事の方が、私個人の思いとしては酷だと感じ、それ故にCさんがその後、介護施設で緩和ケアを受けて亡くなられた事には、正直ホッとした気持ちにもなったのでした。



これら↑のケースではいずれも高齢者でしたが、若い患者さんの中にも透析中断される人がいます。例えばFさんのケース。



Fさんは45歳のシングルマザー。22歳、12歳、8歳の3人の子供を抱えています。Fさんは1年前から腹膜透析をしていたのですが、体調がどんどん悪くなっていきました。そこで血液透析へと変更したのですが、体調悪化は収まりません。そのうち、四六時中吐き気が止まらなくなり、食べる事もままならなくなりました。とくに透析を受けた直後が酷く、透析のたびに激しい吐き気と頭痛に悩まされていました。そんな状態が半年も続き、ついにFさん、透析中止を申し入れたのです。



高齢者患者さんの時は、どちらかと言うとホッとした私なのですが、このFさんの透析中止には大きく動揺しました。まだ幼い子供達はどうするのだろうか?まだこんなに若いのに本当に死んでしまってもいいのか?なんとかならないのか?という気持ちで一杯になります。でも患者さんと話してみると、Fさんはもう一ヶ月前から透析を止める事を真剣に考え続け、子供の養育もお兄さん夫婦と話し合って準備したそうです。そしてFさんは、今すぐにでも出来る事なら死にたいと言うのです。病院としては精神科医にも受診させようとしたのですが、しかしよく考えてみれば精神科に受診させ「うつ」と診断されたところで、Fさんの吐き気も頭痛も治るわけではありません。そして病気からくる痛みや苦しみに耐えている患者さんの多くがうつ状態になるのは当然のことでもあります。Fさんの決意は固く、またその苦しみも相当なものなのでしょう。子供を残してでも楽になりたいと願うくらいなのですから。結局Fさんの強い意志で透析は中止され、Fさんはホスピスで家族に見守られながら亡くなられました。



このケースでは私個人の思いとしては、なんとかしてFさんを生かす方法はなかっただろうかと思ってしまいます。でもこれが医療の限界なんだと思うしかなく、それがまたやるせない、悲しい気持ちにさせます。当然このFさんのケースでは、ホッとした気持ちになるはずもなく、世の不条理に怒りと悲しみを感じたのでした。



さて、ここで皆さんもお気づきだと思うのですが、「私個人の思い」という言葉をこれでもかっ!ってくらい強調しました(笑)。そうなんです!治療中断の決断、すなわち死への決断って、常に冷静沈着&公平さを求められる医療従事者にとっても、それぞれの生死観や倫理観というものが判断に大きく影響されるのです。例えば、私にとって「苦痛」とは「死」よりも酷いものだ!という概念・観念があるので、それに基づいて患者さんにとって透析治療中止が良いものかどうかの判断基準となります。しかし逆に、「死」は「苦痛」よりも酷いもの・恐ろしいものだ!という概念・観念をもっている人には、透析中止という選択肢は最悪・最終的なものだと判断するでしょう。つまり、私が個々の患者さんの死に関して抱いた「ホッとした」気持ち、悲しみ、怒り、動揺なんかは、すべて私が持っている生死観によって生み出された感情だという事なのです。



だからなんなんだ?って話になるのですが、う~む、一体なにが言いたかったのか私にも分からなくなってきたのですが(笑)、安楽死が合法として認められたカナダにおいては、この生死観に関わるケースがこれからどんどんと増えていくと思うのです。そういう中、患者さんの生死の判断に深く関わる医療ソーシャルワーカーにとって、自分自身がもっている生死観を定期的に見直すことはとても大切なことではないかと思うのです。なぜなら自分では良いと思った決断が、必ずしも患者さん、その家族には最良の決断となるわけではなく、下手をすると自分の価値観を患者さんに押し付けることにもなりかねないからです。とくに医療従事者には、医療従事者独特の生死観というのがあります(例:患者さんの苦しみの除去が第一優先)。私もその価値観に当然大きく影響されており、その価値観に基づいて患者さんやその家族に生死に関わる相談や助言をするのですが、これは諸刃の剣で、まさに薬にも毒にもなりかねません。医療ソーシャルワーカーの基本は患者さんの価値観に沿った援助をすること。出来る限り自己の価値観を押し付けないように相談にのらなければいけません。しかしこと生死に関わる事柄については、どうしても自らの価値観が大きく出てしまいます。それを少しでも抑えるために、自己のもつ生死観を改めて見つめ直し、また他者のもつ生死観に理解を深める事が、医療ソーシャルワーカーには求められているんじゃないかと私は思うのです!・・・っとカッコつけて言ってみました(笑)、えへへ。


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