日本の腎臓透析治療中止問題から考えること

最近日本では、腎臓透析中止の件が多く取り上げられているようで、様々なニュース記事が私の目に留まります。倫理が深く関わる事なので、日本の世論も賛否両論おおきく分かれているように思えます。カナダで働く腎臓ソーシャルワーカーの私としても色々と考えさせられる透析治療中止の是非。この発端となった事件については、私は第三者で事情が分からないのでここでは触れるつもりはないのですが、しかしニュース記事から伝えられる医療倫理、とくに医療行為中止に関して否定的な記事が全般的に多い事に私は正直驚きました。医療の現場でソーシャルワーカーとして働いている私としては、そんな記事の内容に疑問を感じると同時に、医療現場での常識と、一般社会での常識が必ずしも一致しない現実を痛感します。医療倫理と社会倫理の乖離のようなものを感じます。



2012年から7年にわたり、私は腎臓ソーシャルワーカーとして腎臓透析科で日々多くの患者さんの援助を行っています。そしてこの7年間で、私が関わった患者さんの半数以上は亡くなられました。私が勤める病院の透析科に来る患者さんの多くは、腎臓病の他にも、心臓病、糖尿病、脳血管障害など併存疾患を抱えているので、全体的な予後は悪く、透析治療を始めてからの平均余命は3年くらいです。かと思えば、透析治療を15年以上続けて健康に過ごされている患者さんもいるので、人それぞれなのですが、透析治療を受ける患者さんの免疫は弱くなっているので、肺炎や敗血症、心臓発作や脳溢血なので亡くなられることが多いのです。その他にも、極度の低血圧やカテーテルの問題から透析継続が難しくなって亡くなられる患者さんもいらっしゃいます。そんな中、ソーシャルワーカーの私が積極的に関わることが多いのが、自らの判断で透析を中断したいと申し出て、そして亡くなられる患者さんのケースです。



透析科で勤めて7年、私が担当した患者さんで、自らの意思で透析を中断し亡くなられた方は恐らく30人を超えています。また今も、透析を中止しようどうか悩まれ相談を受けている患者さんが何人かいらっしゃいます。透析を中断した理由も患者さんそれぞれ違うのですが、一番多いのは透析治療の苦痛。透析穿刺の痛み、透析中/後の吐き気、頭痛、しびれ、透析後の重い疲労・倦怠感などが典型的な副作用です。透析治療は個人差が激しいので、ぜんぜん副作用を感じない人もいれば、副作用がひどくて毎回苦しむ患者さんもいます。そして一般的に透析治療は週3回はやらないといけないので、とくに副作用が強い患者さんが毎週3回苦しみを感じながら一日を過ごすのは大変です。QOL(生活の質)を理由に透析を止める患者さんもいます。とくにお年寄りの患者さんに多いのですが、週3回透析に通い続け、透析の日はクタクタで何も出来ず、次の日は少し元気になるけど、またその次の日は透析・・・「ただ透析をするためだけに生きているような気がする。もうここまで充分生きたし、もう思い残す事はない」そう言って止められた患者さんも沢山いました。その他には、末期の癌に罹ってしまい、これから癌の痛みに苦しんで死ぬよりも、透析をやめて安らかに逝きたいと願い透析を止められた方もいました。



透析治療中止の決断をするのは簡単ではありません。もちろん治療を受けている本人の意思が最優先されますが、現実には家族の同意・協力無しには上手くいきません。そのためカナダの透析科ではソーシャルワーカーが率先して患者さんの心のケア、そして家族と医療チームとの調整・連携する役割を担っています。例えば、カナダでは腎臓ケアセンターという外来クリニックがあり、透析が必要ではない段階の腎臓病患者さんが定期的に腎臓医、看護師、栄養士、そしてソーシャルワーカーと面談します。この段階で、ソーシャルワーカーは患者さんと透析治療の選択肢を話し合います。もちろんこの選択肢の中には「透析治療をしない」選択も含まれています。こうして透析をする前にすでに患者さんには「透析治療をしない」「透析治療をやめることできる」という選択肢が与えられるのです。透析をしないことを希望する患者さんには、ソーシャルワーカーが保健所と連携してホスピスの手配をします。ただここでソーシャルワーカーが強調する事は「もし途中で気が変わったら、いつでも透析治療は受けられる」という事。透析治療をうける権利も、うけない権利も患者さんにはあり、それは可能な限り守られないといけないからです。



ある日本の記事に「医者が透析中止を斡旋するのは患者の自殺幇助と同じだ」と言うような内容が書いてあったのですが、私は、これは違うんじゃないかと思います。そしてこの記事を書いた人は、恐らく透析中止と安楽死の概念とがごっちゃになっているのだと思うのです。カナダでは2016年からMAiDと呼ばれる安楽死法が施行され、今や医療現場でも安楽死が日常的に行われるようになりました。しかしここで言う安楽死とは、医師から患者さんへの薬物投与による死の幇助の事を指します。つまり患者さん同意の下、医師が人為的、能動的に患者さんを死なせる行為こそ「安楽死」と呼ばれるのです。それでは透析中止の場合はどうでしょう?透析中止の場合は、患者さんの意志により、透析治療がやめられます。その結果として患者さんは亡くなられるのですが、ここに人為的、能動的な行為はありません。あくまでも患者さんの透析治療を中止する、つまり治療を施さないと言う受動的行為なのです。ですから透析治療中止は安楽死とは異なるのです。



例えば、癌を患っている患者さんがいて、手術をすれば治ると医師に勧められたとしましょう。でもこの患者さんは手術によって失うQOLが嫌で、癌の手術を受けない選択をしました。そしてその結果、この患者さんは癌でなくなられました・・・この場合これも医師による「自殺の幇助」だと言われてしまうのか?副作用が辛くて抗がん剤を飲まなかった結果、助かったはずの癌が治らず死んでしまった・・・これも「自殺幇助」になるのか?一件極端に見えるこんなケースも医療現場では良くある事です。私達が思う「患者さんを助ける行為」が必ずしも患者さんにとっては「助けになってない」こともあるからです。



昔から日本では「生かすことこそ医療の精神」と言われてきました。そして今回の透析中止の件でも、患者の命を救うべき医療が、患者を死なす援助をするなんて言語道断だ!みたいな記事・主張も多くみました。しかし「生かすことこそ医療の精神」と叫ばれるのを聞くとき、私は医療ソーシャルワーカーとして不安になります。それは「生かす医療」の精神の下、患者さんの声、苦しみ、価値観、といったものが踏みにじられているんじゃないかと思うからです。私にとって「医療行為を受ける」のは基本的人権に基づいた患者さんの権利だと思っています。そして「医療行為を受けない」のも患者さんの権利だと思います。つまり判断能力のある患者さんにとって、医療行為を受けるのも受けないのも同等の権利なのです。例えば、透析を受けたくないと訴える患者さんに「生かす精神」の下、強制的に透析治療を施す!なんて事を想像しただけでゾッとします。そしてこのような状況は歴史を振り返れば過去にたくさん起きているのです。医療の名の下、人権を抑圧され受けたくもない医療行為を受けさせられた人々がどれだけいたことか・・・



もちろん透析治療中止のケースは簡単ではありません。患者さんが透析をやめたい、と言ったらじゃーすぐ止めましょう!って訳にはいきません。なぜ患者さんは透析を止めよう思ったのか?副作用を抑える方法はないか?QOLを改善する方法はないか?少しでも苦痛を和らげる方法はないか?と腎臓ソーシャルワーカーは患者さん、そして医療チームと協力して患者さんが楽になる方法を模索します。それでも透析中止が患者さんにとって一番の選択肢であるのなら、今度は患者さんが苦痛なく逝けるよう、ご家族や医療チームと協力して最後の日を迎えられる準備をするのが腎臓ソーシャルワーカーの仕事です。



私は日本の透析事情に精通しているわけではないので偉そうなことは言えないのですが、恐らく日本の腎臓透析科でソーシャルワーカーを専門に置いてあるところは少ないのではないかと思います。その結果、医師が腎臓透析の中止について患者さんや家族と話し合う役目を担うのですが、患者さんの価値観を知ったり、家族関係を理解したり、家族と継続的に話し合ってミーティングを開いたりといった時間のかかる過程を踏むのは多忙な医師には大変なのではないでしょうか。また医師はあくまでも医療倫理の中心的存在であるため、医療倫理と一般社会倫理との調整役をするのは困難なのかもしれません。だからこそカナダでは腎臓ソーシャルワーカーがキーパーソンとなり、患者さんと医師、患者さんと家族、家族と医師との調整・連携をまかされ、そして患者さんが心安らかに透析治療の選択が出来る環境作りを任されているのだと思います。



・・・と滔々と私の考えを述べてみたのですが、もちろんこれも一個人の意見であり、それはカナダで教育を受けソーシャルワーカーとして働いてきた私自身の偏見や価値観バイアスも当然入っています。しかし「もし私が患者さんになったとして、透析が耐え切れないほど辛かったら?」と想像すると、やはり「透析をやめる」選択肢を親身になって相談にのってくれる医療チームがいる病院の方がいいな~と思うのです。それは安楽死についても同じです。「もし私が死ぬほど苦しい痛みに苦しむ末期の患者だったら?」と想像すると、安楽死を選択肢にできる病院に行きたいと思います。だから私個人がもつ倫理上では「透析治療中止」にも「安楽死」にも反対する理由がないのです。



現在日本で賛否両論あるこの「透析治療中止」についての議論。これはとても良い事だと思います。倫理と言うのは人それぞれですが、話し合わなければそれぞれが持っている倫理観も理解できないし、そして新しい倫理を作り出す事も出来ないからです。どんどん複雑化して倫理的に混迷を深めていく医療現場の声がもっともっと社会に届いて欲しいと思います。そしてもっともっと患者さんの声や価値観が反映される医療現場になって欲しいと日夜患者さんと医療チームの間で板ばさみになる医療ソーシャルワーカーの私は思うのです。


おわり


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